他人によく思われる必要はあるのか
本日は自転車練習、一切なし。
たまにはお酒を飲むのも良い。
色々言っても、結局、人は一人では生きていけないのだから、周囲との繋がりは大切にしなければいけないな、と思わされる会だった。
ただし、必要以上に人によく思われようとすることはただの足かせにしかならないということも再認識させられた。
というわけで、本日は、自転車にはあまり関係のないお話の垂れ流しです。
世の多くの人は、他人によく思われたいらしい
ここ十数年のSNSの台頭は、その象徴だろうと思うが、そういうものは、僕にはあまり無い感覚だ。
「いいね!」
「リア充」
「インスタ映え」
ネット発で、色々な言葉が生まれた。
SNSの利用者は、あの手この手を尽くして、他人に自分をアピールする。
でも、多くの人が発信者になってしまい、観察者・観測者がいなくなってしまっていると思うのは僕だけだろうか。
みんながみんな、自分を必死にアピールしている。
でも、それを真剣に観察している人はあまりいない様に見受けられる。
果たして、なんのために、そんなことをしているのだろうかと思ってしまうことが少なくない。
無駄な物は捨てた分だけ軽くなる
「とにかく人によく思われたい」「人に嫌われたく無い」という想いで、日々頭がいっぱいになっている友人が幾人かいる。
「よく思われるにはどうすればいいだろう」「嫌われたらどうしよう」
毎日毎日そういうことばかり考えているせいか、日々がとても苦しいという。
当たり前だ。
他人は簡単には変えられないのだから。
そもそも、「他人からよく思われたい」という願いの多くは、ほとんど叶うことのない願望なのだから、そんなことばかり毎日必死に考え続けていれば、それはそれはとても疲れるだろう。
絶対に得られないものを得ようとするのは、とても苦しい。
だから、そういう願望そのものを捨ててしまえばよいと僕なんかは思うんだけれど、長年頭に染み付いた感覚は、なかなか捨てきれないらしい。
この記事に書いてある通りで、自己認証欲求はとても怖いと思う。
得られないものを必死に得ようとするから、人は狂っていく。
麻薬や覚醒剤みたいなもので、バカッターなんかもその良い例だろう。
僕の恩師は、「インターネットは自分が溶け出す」と言っていた。「だから、むやみに近づくな」と。
無駄なものは捨てればよいのだけれど、人は、自分の固定観念で自分を縛り付けて、どんどん不自由になる。自分を自分で洗脳してゆき、なかなか捨てることができなくなっていく。
なかなか難しいものだなと思う。
たとえば、悩みを抱えたときに四六時中その悩みと向き合ってしまったり、周囲からの評価が気になりだすと落ち着かなくなってしまったりすることをイメージするとわかりやすい。「脳は考えたり悩んだりといった刺激を感じることが好きで、考えれば考えるほど活発になりさらに考えるようになる」(小池氏)。
そういう意味では、自転車に乗ってペダルを回している時は、基本的に心拍も限界値だし、とにかく苦しいから、なにも考えずに済む。
日常の思考から解放される、ある意味、至福の時間かもしれないなと思う。
「考えが湧いてくることと、その考えに夢中になることは同義ではない。考えが湧いてきた時に、それを客観的に見つめて受け流すことができれば、思考を手放したということができるのではないか」
まさに至言。
ロードバイクは、速く、遠くに、楽に、走り続ける為の道具
ロードバイクの、その、一切の無駄を排除したその姿は、本当に美しい。
人間もそれと同じで、たくさんのものを背負っているよりも、無駄なもの、例えば、思考だった、脂肪だったり……、そういったものを排除した人たちのほうが、とても潔く、美しく、気高く見える。
僕も、日々、そういう人たちに一歩でも近づきたいと思いながら、無駄を排除しながら、必死に生きようとしている。
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